蒼野健造
1960年4月3日生まれ 子年 牡羊座 A型
広島県出身 広島大学医学部卒業
脳神経外科専門医
脳卒中専門医
認知症専門医
広島県 大竹市で生まれ、父親は地方の銀行員、母親は英語教師
父親の転勤に伴い幼稚園は呉市、小学校も2回転校した。小学校の時、すごく好きだったテレビはジャック クストーの<驚異の世界>で、世界中の海を探検する番組。海が大好きだった自分も海洋科学者になって、世界中の海に潜りたいというのが夢だった。
中学より広島市の中高一貫の男子校に入り6年間を過ごす。父親の転勤で、呉市からの汽車通学や、下宿生活、祖父が亡くなったため、大竹市からの汽車通学など、目まぐるしく環境が変わる中で、内向的だった性格も徐々に変わっていった。遠方からの通学が多く、クラブ活動は愛好会程度であった。
中3の時に祖父が膠原病を罹病し、より良い医療を求めて、東京の虎ノ門病院に入院したが、ベッドから転落して頭蓋内出血を起こし、そのまま亡くなってしまった。意識のない祖父を見て母親が大泣きしている姿を初めて見た事や、その祖父を診てくれていた主治医が、廊下で冗談を言って笑っているのに憤慨した事などで、自分は人の気持ちがわかる医師になりたいと強く思うようになった。
高校3年の時点の成績は中の上程度で、これで現役で合格したら高校での新記録だと言われたが、構わず公立大学のみ受験、4校とも不合格となり浪人。予備校の医学進学コースのクラスでも最初は最下位だったが、毎日勉強漬けの1年で、翌年は本命の広島大学に合格することができた。
広島大学医学部ではサッカー部に入部、勝つことが義務付けられた厳しいクラブで、鍛えられた。レギュラーは取れなかったが、西日本医学部体育大会では、6年間で4回優勝、自分が最高学年の時には決勝でPKで負けて、生まれて初めて坊主になった。なんとか留年はすることなく6年間の楽しい学生生活を送ることができた。
晴れて医師国家試験にも合格、期待に胸を膨らませて医師として仕事を始めた。厳しく大学で半年しごかれた後、愛媛県に初期出張、初任給は12万円だった。その後も医局からの指示で広島県で2病院と大学に勤め、その後もう一度愛媛県で14年勤めた。治る患者様も居られるが、治らない患者様にはやはりそれまでの生活に問題があることも多く、それを放置することで急に病気を発症すると言うことが身に沁みるようになった。独身時代の貴重な休日はやりたかったことを次々に始め、ウインドサーフィン、スキューバダイビング、スキーやスノーボードなども満喫、貯金は全く貯まらなかったが、とても楽しい時代だった。34才で結婚し、3人の可愛い娘を授かった。北九州に脳外科部長で転勤するように言われ、中学一人と小学校二人の娘に泣かれたが、最後の転勤のつもりで九州に初上陸した。しかし8年後に医局の事情と地元の大学との関係で、広島大学は北九州から引き上げることとなり、島根県への転勤を打診された。子供たちは北九州の高校と関西の大学だったため、高校生を連れての転居は難しく、また世帯が3世帯になる単身赴任は難しいことから、医局を離れて、自分で就職先を探すこととなった。
その結果、脳外科クリニックの雇われ院長となり、手術のメスも置いて第二の医師人生をスタートした。しかし医局を離れて、雇われてからは、経済的な部分や、オーナーの意向を優先しないといけない場面も多く、自分が一番良いと思う医療が提供できないジレンマでストレスを感じてきた。また今までずっと習ってきた西洋医学のみでは、慢性病は解決できないこともたくさん経験し、予防医学や、体に優しい漢方医療なども研究し、勉強するようになった。また自分の健康のために自転車通勤などで体を動かすことを心がけるようになった。
2020年10月14日、自転車通勤中に交通事故で強く頭部を打撲、頭蓋骨から頭蓋底まだ広範囲に骨折、大きな皮下血腫、頭蓋内には2箇所の急性硬膜外血腫を生じ、右外転神経麻痺、右聴力障害などが出現、意識がある時点で自分のCTを見せてもらい、手術をお願いした。手術では硬膜動脈が切れていて勢いよく出血しており、早めの手術のおかげで、脳機能をそれ以上悪化させることなく回復させていただいた。後遺症として複視を残して現在に至っている。
入院中に考えたのは、家族のありがたさと、人生いつどうなるかわからない、神様に残してもらった脳機能と、残りの人生を、自分が正しいと思うことを仕事にして、チャレンジしたいと思えるようになった。医師活動は最初から、自分や、自分の身内に対してしてあげたい治療を提供することをモットーにしてきていたが、人に雇われての仕事では、限られた時間の中で予防を含めて提供したり、その人の生活習慣を変える手伝いをしたりすることは難しいと思う。自分がオーナーになって新しい形での医療の提供をしてみたいと考えている。
生活習慣を変えると言うのは、言うのは簡単であるが、各々にとっていろんな事情もあってなかなか難しい問題である。しかし、私の場合は、事故後に聴力や複視、少し力を入れるとひどい頭痛がするなどの症状を少しでも早く回復したくて、退院後はかなり生活習慣を変えることができた。色々な本も参考にしながら、複視で車に乗れなくなったため、通勤の片道7km程を毎日歩くようになった。食事を今まで以上に気をつけ、野菜を中心にできるだけ沢山の種類の食べ物を食べることを心がけ、事故前は毎日飲んでいた飲酒をやめると同時に、細胞の若返りのための、16時間断食を取り入れた。毎日数分の筋トレもするようになり、気が付くと体が大きく変化してきた。体脂肪率は9.6%となった。
気分的にも毎日体調が良いと、ニコニコ過ごすことができ、事故後はとても不幸だと思っていたのが、事故があったからこんなに変われたと思えるようになり、今日もたくさん歩けたとか、晩ごはんが美味しいとか、毎日小さな幸せが感じられるようになった。
自分が専門にしてきた脳の不調、頭痛や物忘れ、集中力低下、気分の落ち込みなどに対しては、西洋医学では有効な治療法がないのが現状である。しかしそれらの症状は、現代の生活や食事、運動習慣、睡眠習慣などに密接に関連している。近年急速に、人類の持っている遺伝子に会わない生活が当たり前になっており、それが上記の不調や、ひいてはがん、脳卒中、心臓病、認知症などに繋がっている。それを認識して生活を変化させてゆく人が生き残っていく時代になっているのである。人生100年時代と言われているが、現状では健康寿命は平均でそれよりも10年短いのが現実である。リバースエイジングの医学は日進月歩で進んでおり、その知識をもとに生活習慣を変えてゆけば、病気を遠ざけ、死ぬまで元気で働けることがわかってきた。脳を中心にその不調を改善することをきっかけとして、生活習慣を見直し、健康長寿が満喫できる体に変えてゆくことを仕事にしたいと強く思っている。今後も勉強しながら、皆様の脳不調の改善、ひいては健康長寿につながる情報をたくさん提供してゆきたい。
最後に自分が信じているヒポクラテスの言葉を書かせて頂きます。
人の身体の中には医者がいる。私たちがすべきはただその医者の仕事を手伝うことだけ。誰もが持つ自然治癒力こそが健康になるための最大の力だ。
文明病を遠ざけ、自然治癒力を発揮させることができる体を手に入れるために、日々の生活を見直してゆきましょう!
最後までお読みくださり、ありがとうございました。よろしければ感想をお待ちしております。
蒼野健造