平和ボケの日本人と、縄文人の遺伝子!

2023/06/04

 今日はあまり確固たるエビデンスは無い縄文人の話です。昔すぎて想像するしか無い分野だからです。蒼野は生物も大好きですが、古代人にもすごく興味があります。人類が進化してきて、現代の我々に成っているのは事実ですので、古代の人たちの生き方が、「これから我々がどう生きるのが良いのか」のヒントになると思うからです。

 進化による選択(自然淘汰)というのは、何世代もの時間がかかるという側面と、変化しない安定した環境が必要です。何千年も氷河期のような寒い気候が続けば、人類も寒さに強い遺伝子が生き残ります。しかし農耕が始まった1万年前から、人類を取り巻く環境は、刻々と変化しており、そのため我々の周囲に対する考え方は、1万年以前の縄文人の遺伝子のままなのです。

 欧米の定義によると、文明を表す言葉はcivilization=「城壁に囲まれた市民がいること」で、いわゆる都市を中心とした文明です。世界の4大文明は、メソポタミア文明(紀元前3500~紀元前539年)、インダス文明(紀元前2600~紀元前1800年)、エジプト文明(紀元前3000年~紀元前30年)、古代中国文明(紀元前6000年~)と学校で習いましたが、その後の考古学の進歩により、遊牧民のスキタイ文明や、縄文文明など、都市や国家に捉われない文明の捉え方が、現在の考え方のようです。

 文明とは、技術や科学が発達し、芸術が育まれ、経済交流が活発になり、人々が社会の一員として、組織化され、規律を持って暮らす事であると考えると、人類史史上最古で、最も長く続いた文明が、日本の縄文文明であると言えるのです。獲物を狩っていた原始人は基本的に、定住はできませんでした。それが石を割ったものを使っていた旧石器時代です。

 中東では、紀元前7500年頃から、農耕が始まり、紀元前4000年頃、石を研磨して鋭い刃として使い始めました(新石器時代)。人々は定住するようになり、科学や文字、技術、芸術、経済活動などが発展しました。面白いことに、日本の縄文人が「磨耗石器」を使う新石器時代に入り、定住を始めたのは、紀元前1万5,000年ごろなのです。

 紀元前1000年の弥生時代に入るまで、なんと1万4000年もの間、縄文時代が続いたのです。定住するようになり、生活に余裕が生まれ、さまざまな発明がなされました。磨製石器だけでなく、三内丸山遺跡では、紀元前15000年前の縄文土器が見つかりました。一方世界では紀元前6000年のメソポタミアの土器が一番古いものですので、当時の世界で一番進んだ地域と言っても良いと思います。

 青森県の三内丸山遺跡は、縄文人の生活を知ることができる貴重な遺跡です。縄文文明の特徴は長く続いたことと、人を殺す武器が出てこなかった、つまり戦争が無かったということです。農耕生活に入ってから、人類は戦争を続けています。農業のお陰で、沢山の人口が養えるようになりましたが、天候や天災は常に起こります。大飢饉が起こると、背に腹は変えられず、生き延びるために、食糧を求めて戦争が起こるのは自明の理です。また遊牧民であれば、土地をめぐっての戦争は必発です。

 農業の拡大により、土地の資源は必ず浪費され、エジプトやメソポタミアは砂漠になってしまいました。しかし縄文人は豊かな自然に囲まれ、自然と共存が可能な上、1万9,000年前からの100mの海面の上昇によって(縄文海進)で大陸から切り離され、戦いに巻き込まれることもありませんでした。

 狩猟採集生活では、獲物や木の実が獲れたらみんなで分けて、仲良く生きてゆくのが、最も生存の可能性を高める方法です。どんなに狩猟名人でも何日も獲れない日はあります。手分けして毎日食べる物を誰かが取ってきて、それを分け合ってエネルギーを確保することが、最も効率的な方法であったことは容易に想像できます。戦って相手を殺し、食糧を奪えば、獲物が取れない時のセーフティネットが小さくなるということです。

 縄文の人々は、多種多様な食べ物を摂っていました。遺跡から出土した食べ物を調べると、陸上動物60種類、魚類70種類、貝類300種類を食べていたようです。植物も含め、季節の旬に応じて色々な物を、狩猟採集し食べていました。生産性は高くはありませんでしたが、多様化することで、豊かな食生活をおくっていたものと思われます。それは農業が支えられる人口よりも、ずっと少ない人口であったことが、長期間自然と共生できた要因の一つでもあります。

 三内丸山遺跡は竪穴式住居が500戸確認されており、数千人が住んでいたと言われています。竪穴式住居、貯蔵穴、倉庫、ごみ捨て場などからなる「村」という単位です。土器の発明で、煮炊きができるようになって、アクの強いトチの実なども食べれるようになったり、干したり、燻したりすることで、保存方法が進化し、生産性は上がります。三内丸山遺跡では栗の栽培も行っていました。遺跡からの花粉の80%が栗であること確認され、自然にはあり得ないそうです。

 飢える心配が無くなると、他の地域との交易も盛んに行われるようになりました。誰もが欲しがったものは、極めて硬く、鋭く、殺傷力があるため、矢尻に使われる黒曜石です。また日本では糸魚川周辺でしか取れない翡翠が、三内丸山遺跡から多く出土しています。千葉県の遺跡からは、国内最古となる、約7,500 年前の、7.2 メートルの丸木舟が見つかっています。縄文時代の丸木舟は、全国で約160 艘も発見されています。

 三内丸山遺跡から見つかる黒曜石は、北海道を含む東日本の各地から運ばれたものですし、翡翠は糸魚川から運ばれています。黒曜石を矢尻として矢に取り付ける接着剤は天然アスファルトで、火で溶かし、冷やして固めて使います。これも各地から運ばれてきた物です。逆に三内丸山遺跡で加工されたと考えられる翡翠は、北海道や沖縄、朝鮮半島でも出土しています。この時代に通貨は無かったため、翡翠や琥珀、そして長年の付き合いを通しての信頼が、経済的交流を支えていたものと推測されます。

 岡本太郎さんが感動したと言われる、縄文の火焔型土器は、使われた跡はありますが、実用的ではなく、とても芸術的な形をしています。きっと生活に余裕があり、芸術を生むことができる平和な日々だったのに違いありません。こんな人々が日本人の祖先と知り、蒼野は嬉しくなりました。もちろん弥生時代に農耕が始まり、戦争や殺し合いが起こるようになりましたが、最初に書いたように、平和を守る方が、種の保存に有利だった縄文の遺伝子は、環境が激変し続ける3000年で変化するはずもなく、必ず現代の我々の中にも残っているはずなのです。

 よく日本人は平和ボケと言われますが、戦いの歴史を生き抜いてきた大陸の人間とは、遺伝子の戦略が根本的に違っているような気がします。そう考えると国民皆保険にしても、生活保護にしても、民主主義の日本は、かなり共産主義的ですよね。災害の時の対応なども、抜け駆けするのではなく、みんなで生き延びようという人が多いのは、縄文人の遺伝子に違いありません。

 AIを始めとする新技術によって、今後ますます人間が働ける分野は少なくなるはずです。しかし働き口が無いから食えないというのは、縄文人の発想からは違うみたいです。縄文人の化石の中に、病気で動けない状態でも大人まで生きた人の化石が見つかったそうです。誰かに支えられて生きた事が分かります。

 今後の現代は多様性、自己責任という事が重視される世界になりがちだと思います。しかし我々は見事に自然とも周囲とも長く共生できていた、縄文人の子孫です。世界とうまく折り合いをつけながらも、日本の良いところを残してゆけたら良いなあと感じました。三内丸山遺跡を、絶対一度は見に行こうと心に決めた蒼野でした。

参考資料:  世界最古かつ最長の文明の謎     三橋 貴明 

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